「荒神」という言葉がある。
もともと日本人には,エネルギーが集まる場所,モノを神として祭る習慣があった。
というのは,私の勝手な理解。たぶん間違いも多い理解だろう。
しかし,日本の神道について,その起源はアミニズムではないというハナシも
どこかで読んだから,あながち間違えでもないと思う。
アミニズムは,自然万物に聖性が宿るという考え。
神道はその中でも,エネルギーが集中している場所,モノを祭る。
風水の龍穴などもその類。
だからアミニズムではない。このエネルギーには,正と負があるので,
良いもの,正しいと思われるものだけが神になるわけではない。
そこで,好ましくない,邪なモノも神として祭られる。
この場合,「祟り神」などと呼ばれ,菅原道真や平将門なんかはこの類。
祟り神を祭るのは,厄災から逃れるためとか言われるが,
結局,根底にあるのは,「罪悪感」だろう。
菅原道真も左遷先の大宰府で非業の死をとげた際に,京で落雷やら疫病やら
起こったので,神として奉って厄災をもたらさないよう祈願したということだが,
これも,政敵の罪悪感が原動力だろう。
こんなことを考えていたのは,靖国の問題を見るに付け,
神社という「神」の意味が外国に理解されていないからではないかと思っていた
からだ。つまり「神」=「GOD」ということに通訳不可能性が存在している
ということ。「祟り神」を生み出す日本人の論理は必ずしも理解されているとは
思えない。
政争やその延長としての戦争戦没者を神社に祭るというのは,何も靖国だけではない。
菅原道真や平将門以前にも,早良親王なんていうのもある。
こういったメジャーどころだけじゃなく,田舎に行けば,その土地の戦没者を
祭った神社がいたるところに見つけることが出来る。
政治は「マツリゴト」であり,そのトップになった人間はしばしば神輿にたとえられる。
で,政争に敗れれば,真っ先に犠牲に供される。
そういう争いの中で,相手を破った者,周囲で傍観していた者は,犠牲によって
現在生きながらえているという「後ろめたさ」を感じるだろう。
靖国神社も,まあそういう心理的な来歴があるように思うのだ。
そう思うと靖国も政治目的の官製神社と断ずるのは表層的に思えてならない。
上の見方で考えれば,菅原道真に浄蔵がしたように,花を手向けて静かに
慰めるのが良いのかもしれない。「触らぬ神に祟りなし」である。
こうも言う。「鬼神は敬してこれを遠ざく」と。
でも,こうしてツラツラ書くのは孔子的にはダメダメだな。